悪者にされたエネルギーの逆転
かつて乳酸は、「疲労物質」と呼ばれていました。
運動後に足が重くなるのは乳酸のせいだと、教わった記憶がある方も多いのではないでしょうか。
苦しさと同時に現れるものは、その原因だと考えられやすいものです。
そうして乳酸は、長いあいだ “悪者” の役割を与えられてきました。
しかし現在では、その理解は修正されています。
乳酸は単なる老廃物ではありません。
それどころか、脳にとって重要なエネルギー源のひとつであり、
神経活動を支える役割を担っていることが分かってきました。
私たちが思考し、判断し、集中するとき、その裏側で静かに働いている存在。
それが乳酸なのです。
悪者だと思われていたものが、実は支えていた。
この逆転は、単なる生理学のアップデートではありません。
価値の見方そのものを問い直す出来事です。
私たちはしばしば、「派手で分かりやすいもの」に価値を置きます。
目に見えて成果が出るもの、すぐに効果が実感できるもの、周囲から称賛されやすいもの。
しかし脳が本当に頼っているのは、そうした瞬間的なエネルギーだけではありません。
むしろ、目立たず、静かに、しかし確実に供給され続ける力なのです。
もしそうだとしたら —。
人生においても同じことが言えるのではないでしょうか。
それらは本当に「脇役」なのでしょうか。
それとも、私たちの思考と人生を支える、静かなエネルギーなのでしょうか。
乳酸の再評価は、私たち自身の再評価につながっています。
見えないところで働く力を、もう一度見つめ直すために。
ここから、その構造をひもといていきます。
なぜ乳酸は誤解されてきたのか

目に見えないものは疑われやすい
乳酸は、体内で常に産生されている物質です。
安静時であっても、私たちの血中には一定量の乳酸が存在しています。
しかしそれは、体感としてはほとんど意識されません。
人は、目に見えないものを理解するのが得意ではありません。
特に「数値として存在しているが、感覚としては捉えにくいもの」は、
意味づけが単純化されやすくなります。
実際、乳酸はかつて「酸素不足によって発生し、筋肉に蓄積して疲労を引き起こす物質」と説明されてきました。
しかし現在では、この理解は修正されています。
乳酸は嫌気的代謝だけでなく、十分な酸素がある状態でも産生され、
むしろエネルギー基質として再利用されることが明らかになっています。
たとえば、Brooksらによる研究では、乳酸が単なる代謝の副産物ではなく、重要なエネルギー循環の担い手であることが示されています。
「老廃物」というラベルは、理解を簡単にします。
しかし簡単な説明は、ときに本質を取りこぼします。
出典:The lactate shuttle during exercise and recovery
苦しさと同時に現れるという誤認
運動中に感じる強い疲労感や筋肉の灼熱感。
それらと乳酸の増加が同時に観察されたことから、
「乳酸が疲労の原因である」という仮説が広まりました。
しかし現在では、運動後の筋肉痛(遅発性筋肉痛)は乳酸の蓄積とは無関係であることが分かっています。
乳酸は運動後比較的速やかに代謝され、エネルギーとして再利用されます。
つまり、乳酸は「苦しさの原因」というよりも、
「エネルギー需要が高まった結果として現れる指標」に近い存在なのです。
ここには、因果と相関の混同があります。
苦しさと同時に現れるものを、私たちは原因だと決めつけやすい。
しかしそれは、身体が限界まで働こうとしている証でもあります。
出典:Biochemistry of exercise-induced metabolic acidosis
社会は “分かりやすい悪役” を必要とする
科学の歴史は、単純化の歴史でもあります。
複雑な生理現象を理解するために、私たちは物語をつくります。
そして物語には、しばしば「悪役」が登場します。
乳酸は、その役を引き受けてきました。
けれども現在では、「アストロサイト‐ニューロン乳酸シャトル仮説」に代表される研究により、
乳酸が脳内で重要なエネルギー供給源となっていることが示されています。
脳はグルコースだけでなく、乳酸も利用しています。
とくに神経活動が高まる場面では、乳酸が効率的に供給されることが分かってきました。
悪役にされた存在が、実は支えていた。
この構図は、乳酸に限った話ではありません。
私たち自身の人生にも、「誤解された力」はないでしょうか。
それらは、本当に “無駄” だったのでしょうか。
脳がどのようなエネルギーを好むのかを見ながら、
「派手さ」と「安定」の違いについて考えていきます。
脳は「派手なエネルギー」を好まない

血糖値スパイクという不安定さ
私たちの脳は、体重のわずか2%ほどの重さしかありませんが、
全身エネルギー消費の約20%を使うと言われています。
つまり脳は、非常にエネルギー依存度の高い臓器です。
その主要なエネルギー源はグルコース(血糖)です。
しかし、ここで重要なのは「何を使うか」だけではなく、「どのように供給されるか」です。
精製された糖質を多く摂取すると、血糖値は急上昇します。
その後インスリンの働きによって急降下が起こり、いわゆる “血糖値スパイク” が生じます。
この急激な変動は、眠気や集中力の低下、気分の不安定さと関連することが報告されています。
脳は大量のエネルギーを必要としますが、急激な乱高下を好みません。
むしろ、安定した供給を求めています。
乳酸という「即応型の安定供給」
近年の研究では、脳がグルコースだけでなく乳酸も積極的に利用していることが示されています。
とくに神経活動が高まる局面では、
アストロサイト(神経を支える細胞)からニューロンへ乳酸が供給される仕組みがあるとされています。
これは「アストロサイト‐ニューロン乳酸シャトル仮説」と呼ばれています。
乳酸は、単なる代謝の副産物ではなく、
「必要なときにすぐ使えるエネルギー」として機能しているのです。
ここで注目すべきなのは、その性質です。
乳酸は爆発的に作用するエネルギーではありません。
しかし、神経活動が高まった瞬間に、静かに、しかし確実に供給されます。
派手ではありませんが、即応性があり、途切れにくい。
脳が求めているのは、刺激の強さではなく、安定と持続なのかもしれません。
私たちは、強い刺激や劇的な変化に惹かれがちです。
しかし脳そのものは、急激な乱高下よりも、安定した供給を選んでいます。
もし脳が「安定」を優先する設計になっているのだとしたら、
人生もまた同じ構造を持っているのではないでしょうか。
一気に燃え上がるエネルギーよりも、
静かに続くエネルギー。
ここから先は、その「支える側」の力について考えていきます。
乳酸は「支える側」のエネルギー

乳酸の再評価が示しているのは、単なる代謝経路の修正ではありません。
それは「エネルギーとは何か」という問いの再定義でもあります。
私たちはエネルギーという言葉から、しばしば “勢い” や “爆発力” を連想します。
しかし、乳酸が担っている役割は、そのイメージとは少し異なります。
乳酸は主役ではありません。
しかし、主役を動かしています。
神経活動が高まるとき、アストロサイトから供給される乳酸がニューロンの活動を支えます。
前章で触れたアストロサイト‐ニューロン乳酸シャトル仮説は、まさにその「支える構造」を示しています。
乳酸は舞台の中央には立ちません。
けれども、その供給がなければ、舞台そのものが成立しません。
この構図は、社会のあらゆる場面に見られます。
目立たないけれど、欠ければ全体が崩れるもの。
私たちはつい、「表に出ているもの」に価値を集中させてしまいます。
しかし脳の仕組みを見れば分かるように、
本当に重要なのは “動き続けられる状態を支える力” です。
ここで一つ、視点を反転させてみます。
もし人生を一つの神経活動だとしたら —
私たちを前に進ませているのは、どのエネルギーでしょうか。
それらは確かに強い光を放ちます。
しかし、それだけで長くは続きません。
むしろ私たちを支えているのは、
それらは目立ちません。
SNSで称賛されることも、ほとんどありません。
けれども、それらがあるからこそ、
思考は安定し、判断は深まり、人生は崩れにくくなります。
乳酸は、「支える側」のエネルギーです。
そしておそらく、40代以降の人生において重要になるのも、
この種類のエネルギーではないでしょうか。
若い頃は、勢いで進めたこともあります。
しかし年齢を重ねるにつれ、私たちは知ります。
人生を長く支えるのは、静かな基盤であることを。
乳酸の役割は、その事実を身体レベルで教えてくれています。
この「乳酸型エネルギー」が、私たちの日常にどのように存在しているのかを具体的に見ていきます。
出典:Lactate in the brain: from metabolic end-product to signalling molecule
人生にも「乳酸型エネルギー」がある

ここまで見てきた乳酸の役割は、単なる生理学の話にとどまりません。
それは私たちの日常にも、そのまま当てはまる構造です。
毎日の小さな習慣
たとえば、
どれも劇的な変化をもたらすものではありません。
一日や二日で、人生が変わることはないでしょう。
しかし、脳の可塑性(経験によって神経回路が変化する性質)は、反復によって育まれます。
小さな行動の積み重ねは、目には見えませんが、神経回路レベルでは確実に変化を起こします。
乳酸が神経活動を支えるように、
日々の習慣は思考の土台を支えています。
派手ではありませんが、確実に効いているのです。
出典:Neuroplasticity: changes in grey matter induced by training
誰にも見られていない積み重ね
多くの努力は、表に出ません。
それらは成果物には残らず、履歴書にも書かれません。
けれども、脳はその過程を通して鍛えられています。
前頭前野は、繰り返しの課題遂行によって効率的に働くようになります。
判断力や感情制御は、一度の成功ではなく、
繰り返しの経験によって強化されます。
誰にも見られていない時間は、決して空白ではありません。
それは、内側で起きている再構築の時間です。
出典:An integrative theory of prefrontal cortex function
ある日、思考力として現れる
乳酸は、その場で爆発的な変化を起こすわけではありません。
しかし必要な瞬間に、神経活動を支えます。
同じように、日々の積み重ねも、
ある日突然「使える力」として現れます。
それは劇的な出来事ではありません。
しかし確かな変化です。
人生は、スパイクで動いているわけではありません。
むしろ、静かなシャトルのように、内側で循環しているエネルギーによって動いています。
評価は遅れてやってきます。
しかし、構造は先にできあがっています。
乳酸型エネルギーとは、
「見えないうちに、すでに支えている力」です。
そのエネルギーをもう一歩抽象化し、
“内に燃える火” という視点から見つめ直します。
まとめ:内に燃える火としての乳酸

火には、いくつかの種類があります。
一瞬で燃え上がる炎。
遠くからでも見える大きな火。
そして、ほとんど音も立てず、静かに燃え続ける熾火(おきび)。
乳酸の役割は、後者に近いものです。
けれども、神経活動が続く限り、静かに支え続けます。
近年の研究では、乳酸は単なるエネルギー源にとどまらず、神経可塑性や記憶形成にも関与している可能性が示されています。
つまり乳酸は、「その瞬間を動かす力」であると同時に、
「未来を形づくる力」でもあるのです。
静かなエネルギーは、派手ではありません。
しかし消えにくい。
人生にも同じ種類の火があります。
それらは目立ちません。
称賛されることも少ないでしょう。
けれども、それらがあるからこそ、
私たちは崩れにくくなります。
それは、内側に小さな火が灯っているからです。
若い頃は、強い炎に憧れます。
しかし年齢を重ねるにつれ、私たちは知ります。
長く生きるには、消えにくい火が必要だということを。
乳酸は、その身体的な比喩です。
目立たず、しかし確実に、脳を支え続ける存在。
もし今、あなたが派手な成果を出していなかったとしても、
毎日を崩さずに積み重ねているなら —
それはすでに、内に燃える火です。
価値は、静かなところで生まれています。
見えないエネルギーが、脳を、そして人生を動かしています。
乳酸の再評価は、
私たち自身の再評価でもあります。
出典:Astrocyte-Neuron Lactate Transport Is Required for Long-Term Memory Formation
おことわり
本記事は、現在の研究知見をもとに乳酸の役割を紹介しつつ、その構造を人生観へと翻訳することを目的としています。
医療上の診断や治療を目的としたものではありません。
また、科学的理解は常に更新される可能性があります。
本稿は思考の視点を提供するものであり、特定の健康法や実践を推奨するものではありません。
本記事で使用した画像はNapkin AIを利用しています。
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